朝来市・和田山町竹田 / 粗挽きの手打ち蕎麦
七月二日
皿の名に、雲海も天空もある
そば処 伊とう

今日は、腹が減っている。
それだけの日である。
一昨日、道の真ん中で上を見た。 近すぎて、絵にはならなかった。 見ようとするのも、見まいと決めるのも、一昨日で終わっている。 竹田で七日目になる。
町の西寄りに、南北へ通る細い道がある。 西側には白い塀が続き、屋根つきの門が四つ、北へ並んでいた。 塀の足もとを細い水が一筋流れ、石の小橋の下に、太った鯉がいる。
東側に、家が一軒だけ立っていた。 白い漆喰に黒い柱と梁を組んだ二階建てで、屋根の三角がまっすぐ通りを向いている。 軒下の板に、そば処 伊とう、と彫ってある。
九日前、峠ひとつ向こうのそばの家では、看板に釣られて丼を頼んだ。 この旅で、私はまだ一度もそばを食っていない。 木の格子の戸を引いた。
入ってすぐは木の卓と椅子、奥が一段高く畳である。 上がり口の横木が、部屋を横一文字に切っていた。 高いほうには低い卓が三つ。 下の卓についた。

卓の端の綴じたものを開くと、初めの頁は冷たいそばであった。 盛り。おろし。梅の出汁。 並びの終いのほうに、雲海そば、とある。
めくると、次は温かいそばである。 きつね。おぼろ昆布。山菜。 そこにも、雲海そば、とあった。 値は前の頁と同じである。 下に、天空そば。 金の箔が入るという。 その隣が、岩津葱と牛肉のそば。 一昨日の店にも、同じ葱の名だけはあった。
七日のあいだ受け取りそこねてきたものの名が、二つの頁に分かれて載っている。 名では、どちらの頁かは決まらない。 決まるのは、冷たいか温かいかだけである。
この七日でいちばん暑い。 それでも私は、温かいほうの頁を取った。 いちばん大きいと名に書いてある一杯を頼む。 ジャンボきつねそば、という。
紺の縁の厚い碗が置かれた。 澄んだ茶色のつゆに、油揚げが一枚、碗の差し渡しいっぱいに広がっている。 折らず、切らず、一枚のまま浮いていた。 ふちの木の匙は、先がもうつゆに沈んでいる。

端を箸で持ち上げると、揚げは重く、含んだつゆでたわんだ。 歯を当てると、汁が先に出る。 下のそばは、粗く挽いた粒が黒い点になって散っている。 熱いものが首から胸まで順に通って、汗が出た。
外へ出ると、日が高い。 店の脇の格子に、紙が何枚か貼ってある。 一枚は鯉の絵であった。 寺町通りの鯉より、と署名がある。 餌を売る家の名が、天空の城、とあった。
いちばん端に、時刻の表が貼ってあった。 駅を出て、山城の郷を回り、城跡まで上がって、また駅へ戻る。 朝から、夕方に近い時刻まで、数字が縦に並んでいる。 このバスの名も、天空という。
七日いて、私はこの土地のものを何ひとつ受け取れずにいる。 受け取れなかったものが、皿の名になり、餌を売る家の名になり、こうして時刻まで持っている。 数字は分きざみに正しく、朝の霧のことは一字も書いていない。
端まで読んで、紙から目を離した。 口の中が、まだ熱い。
本日の皿
看板の皿
物語の余韻を、実際に選ぶ一皿へつなぐ。

品書きから
雲海そば
白い広縁の大鉢に冷たいそばを盛り、長芋のとろろと丸い温泉玉子、椎茸の甘辛煮、貝割れ、刻んだ葱をのせ、焼のりを一枚立てかける。つゆは別の椀で添い、小皿のごま豆腐がつく。竹田城跡の雲海にちなむ名で、冷たいそばの頁にも温かいそばの頁にも同じ名で載るという。ほかに金箔を入れた天空そば、岩津葱と牛肉のそばなどがある。
店内の品書きと公開されている写真をもとに構成。品目は入れ替わることがあるため、訪問前に公式情報またはGoogleマップをご確認ください。
周辺図
道しるべ
〒669-5252 兵庫県朝来市和田山町竹田517-1
イメージ図。正確な道順はGoogleマップでこの文章は、公開されている店舗情報や来店者の声を参考に構成した創作エッセイだ。 営業時間、定休日、メニューは変更される場合がある。 訪問前に公式情報またはGoogleマップを確認してほしい。